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新光明寺について

Guidance

浄土宗 新光明寺

【宗祖】 法然上人

【開宗】 今から800年ほど前

    (承安5年)

【本尊】 阿弥陀如来

 

【教義】 阿弥陀如来のお誓いを深く信じて南無阿弥陀仏とお称えすることによって、どんなに罪深い者でも一切の苦しみから救われ「明るく」「正しく」「仲良く」毎日を送ることが出来、そのままの姿で立派な人間へと向上し、浄土に生まれていくことが出来るという教えです。

 

【お経】 お釈迦様のお説きになられた 無量寿経 観無量寿経 阿弥陀経(浄土三部経)の三つの経典を大切に致します。

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【徧照山 摂取院 新光明寺 沿革】
当山は、念仏の元祖法然上人を宗祖と仰ぐ浄土宗に属し、京都にある総本山知恩院の直末寺で、遍照山摂取院新光明寺と称します。

 寺伝によれば、貞永元年(1232年)法然上人の法孫 恩蓮社源誉上人が、今の静岡市伝馬町の地に、仏師快慶作の阿弥陀如来像を御本尊として安置し、東海の念仏道場として建立された寺であると伝えられております。法然上人の御開宗から57年後のことです。

このことは、昭和5年刊の「静岡市史」第四巻に記載されています。

 しかし一方で「駿河記」(文化6年=1809年刊)や、「駿河志料」(文久元年=1861年刊)など、近世の地誌類などには、永正8年(1511年)にこの地に至った鎌倉幕府二代将軍頼家の子孫で鎌倉光明寺九世、源誉上人により創建されたという記載もあります。

こちらの伝によれば、源誉上人は、頼朝の妻、北条政子の発願により 当山創立の後、当地に滞在し入寂されたということです。いずれにしても、度重なる火災やその他の災厄により、寺の縁起の類は残されておらず、詳細は不明であります。

「御湯殿上日記」(おゆどののうえのにっき)には天文11年(1542)に「駿河新光明寺某」が知恩院僧とともに宮中に参内し、香衣を申請したとあり、当寺と京都との交流が伺えます。

​ その他にも、山科言継(大納言)の書いた「言継卿記」には、「駿府の新光明寺に一年有半滞在す。塔頭は二十を数え、伽藍完備せり」と記録されておりまして、当時(1556年)の当山の壮観ぶりがうかがえます。

 しかし、かくも荘厳を誇った当山も、嘉永7年の大地震により 堂塔ことごとく損壊し、翌8年に再建しましたが、往年の威容は取り戻すことが叶いませんでした。

 その後も 明治9年の伝馬町大火、昭和15年の静岡大火、昭和20年の米軍空襲等、相次ぐ火災により度々類焼し、一時は本堂もない有様となってしまいました。

 市当局から当山の移転を要請されていた先代住職(当山第四十世廣誉泰彦上人)は昭和47年より檀信徒と協力して、寺院の移転という大事業を敢行し、昭和52年、縁深い静岡市葵区足久保の地に新光明寺の本院を建立いたしました。

 それに伴って、境内にあった馬頭観音像 並びに かさもり稲荷も移転してこの地に祀られております。また、十一番札所として古文書の記録をもとに再興された准胝観音もおまつりされています。

 ただ、伝馬町は先祖ゆかりのちということで、墓地の跡地の一部に別院を建立し、当山開山からのご本尊である阿弥陀如来立像(快慶作・重要文化財)は別院本堂に安置しております。